Sunday, November 13, 2011

Oafuさん納品したよ。

いつもお世話になっている福岡市大名にある美容室、Oafuさんに新しい作品いくつか送ったよ。Oafuさん、本当にいつもいつもありがとう!



ここ数ヶ月、自分でワイヤーを溶かしてHeadpinが作れるようになった。とても些細な進展だけど、でも自分にとってはとても嬉しい進展。ワイヤーの先端を炎にかざしてジュルっとワイヤーが溶けて丸まる瞬間がとてもおもしろい♥

いろいろなメタルの性質?も少しずつわかってきた。例えば銀はとても柔くてすぐ溶ける、銅は銀や金よりも丸まるのに時間がかかる、それがほんの数秒だったとしてもその違いがわかってきた。Gold-filledのワイヤーでは中心のベースとなっているメタルと、その周りをコーティングしているゴールドで溶融点が違うためにうまく丸まらない。そんなことが少しずつだけどわかってきておもしろい。

とても細いワイヤーを溶かしてHeadpinを作って、細かいSeed Beadsを使った作品作りに最近ハマってる♥ものすごぉ〜く地味な作業だけど、夢中になる。今までの大振りなビーズのときとやっている作業は同じなのだけれど、ビーズのサイズ感があまりに違うためにバランス感覚が難しい。まだ慣れない。○○cmの長さを作るのにどのくらいの大きさのビーズがどのくらいの数必要なのかとか、どんな風にぶら下がるのか、まだうまく感覚がつかめなくて何度もやり直し。



福岡市近郊にお住まいの方はぜひOafuさんに行って手に取ってみてください♬

Love and Big Smile :D
nao xox

Monday, November 7, 2011

ノルウェイの森の霧の中…。

「ノルウェイの森」去年日本で上映されているのを知って、観てみたかった。もうずっと何ヶ月も前にこっちのSydney Film Festivalで上映されるのを知って観たかったけれど見逃してしまった。ついに先月から映画館で普通上映が始まり、お友達と観に行こうと言いつつ時間が合わず、とうとう今日がこの映画を観れる最後のチャンス!だった。朝一番にボスくんにお願いをして、仕事に遅刻をしてまで今朝観に行ってきた。(こんなわがままを許してくれるボスくんが彼以外にいるだろうか。私はどこまで甘やかされているのだろう、と彼のもとで働けていることを改めて心から嬉しく思った。)

原作を、10年くらい前に一度読んだ覚えがある。はずなのに、どんな内容だったのか全く思い出せない。思い出せることといえば、よく意味の分からない本だった、という微かな記憶…。それともあまりにも有名な本だけに自分も読んだことがあるという錯覚に落ち入ってるだけなのか、な。


画像はネットからお借りしました。ありがとう。

もしかすると私が若かったから?それとも私が本気で人を愛したことがなかったから?あれからもう少し年を重ねた今の私なら、あんなに大ベストセラーなこの物語を私も理解することが、好きになることができるかな?そんなことを思いながら映画館へ向かった。

結果、今日一日中どんよりとした霧の中をあてもなくボォーっと歩き続けているような重い気分になってしまった。生と死、性と愛、静と動、清と汚、そういうことをテーマとするタイプの映画は好むほうだと思う、けれど、その全てにおいて何も、映画の中のどの役にも共感することができなかった。

キズキがなぜ自ら命を絶ったのか。彼と直子、ワタナベが三人で過ごした時代がほとんど描かれていなかったからなのか、キズキを失った直子とワタナベの苦しみが伝わってこない。死を選んだ親友、その親友への思い、そしてもがきながらも生きることを選ぶワタナベの心理も伝わってこなかった。

直子が療養所に入ってしまうほど深く心に傷を負ったのはキズキの死だったのか、愛していたのに体が彼を受け入れることのできなかった自分の心と体の相反する矛盾だったのか。僕だけは決して直子を見捨てない、彼女が僕を愛していなくともいいんだ、と、ワタナベの直子へのあの責任感はどこからきていたのか。 彼女を愛していたからなのか、直子もけっきょくワタナベを愛していたのか何なのか。

二人が東京の街を散歩するシーンも療養所で直子がワタナベに自分の胸の内を告げるときのシーンも、私個人的にはもっと静けさが欲しかった。キズキという愛するものを失った悲しみを共有しながらも、それに触れるべきなのかそうでないのか、触れたいのか触れたくないのか触れられたくないのか、もろいガラスの破片の上を歩くような儚さと危なさと丁寧さを感じ取りたかった私の心は、あまりに早く歩く直子とワタナベのシーンとに心が混乱し居心地が悪かった。



直子が自殺を図ったのはワタナベを解放してあげたかったからなのか、それともただ自分の苦しみから抜け出すことができなかっただけなのか。ワタナベの口癖である「もちろん」。直子はそれを止めて欲しいと願った。この言葉が意味するものはワタナベの人の良さなのか弱さなのか、もっとワタナベという青年の性格を表現するカギとなってよかったはずなのに中途半端なキーワードになってしまっていた気がする。

緑とワタナベの愛もとても伝わりにくかった。直子と緑という二人の女性への愛の間で葛藤するワタナベの気持ちも伝わってこなかった。もう十分苦しんだから幸せになりたいと願う緑の今までの苦しみさえも分からないだけに、彼女の自由奔放に振る舞う弱さも可愛さも健気さも何も伝わらない。

直子までもが自ら命を絶ったときワタナベはどういう思いだったのか。悲しかったのか、悲しかったのだろう。でもその悲しみの中に正直どこかで何かから解放されたような自分の中の黒い部分があったりしたのだろうか。「愛しているよ。とっても。」直子の死後の緑への電話での言葉。ワタナベの緑への愛が伝わってこないだけに全てが空っぽに聞こえてしまう。

憧れているのか尊敬しているのか、それともこんな男にだけはなりたくないと思っているのか、両方かな、永沢さんというワタナベの先輩も、自分も患者だと言っていた直子の療養所で直子のお世話をしていたレイコさんも、本当は絶対重要であろう人物たちなのに、彼らの苦しみや人間味、関係性が何も伝わってこないだけに彼らの存在が余計この映画を理解不可能なものにさせてしまっていたように感じた。だから永沢さんのワタナベに向けるアドバイスも何も響いてこないし、それが実は自分自身へ向けていた言葉なのかどうかも、そしてそれをワタナベは本当は知っているだろうことを彼も分かっていたのか。永沢さんの彼女、ハツミさんが彼と別れた二年後に誰かと結婚をし、そして自殺をした気持ちも伝わってこない。レイコさんがなぜ直子の死後ワタナベを訪れて抱いて欲しいと言ったのか、その必要性が何だったのか、何も伝わってこない。



これは私だけかもしれないけれど、映画の最後でワタナベが「僕はどこにいるんだろう?」と呟いたときに、私は上海ベイビーを思い出した。でも私は上海ベイビーを何度も読んでいるし、大好きだし、それにノルウェイの森と上海ベイビーも全然違うお話だけれど、自分と性の関係を持つことができない恋人、その彼への深い愛と彼から受ける深い愛、見捨てることのできない優越さと苦しさ、恋人とは真逆のドイツ人男性とのセックスやその彼と恋人との二人の男性への愛、とか、なぜか上海ベイビーが頭をよぎった。

ノルウェイの森を観ている始終ずっと、自分以外のみんなが大酒を飲んで泥酔して大騒ぎしているのに自分だけがシラフであぁみんな酔っぱらってるなぁ…って冷静で、そんな感覚と似ていた。どんなに体を張った演技でも、口からよだれが垂れてもどれだけ性的描写がでてきても、気が狂ってわめいても、あぁ悲しいん だぁ、へぇやっぱり自殺しちゃったんだぁ、あぁ泣いてるねぇ、何も伝わってこないからそんな冷めた感覚でとてもとても遠く離れたところから観ているように感じた。私は感受性に乏しい人間なのだろうかと少し自己嫌悪にまでなった。

そんな何ひとつ伝わってこなかった共感できなかったのに、じめじめとした湿った霧に包まれた森の中をあてもなく歩く、どんよりとした匂いと感触だけはずっと一日中まとわりついている、私にとってはそんな映画だった…。でももう一度原作、本を読んでみたいなぁ。また共感できなかったら、あんなに日本の文学史上に残るベストセラーも私には理解できないとすっぱりあきらめよう。

唯一好きだったのはあの時代のファッションとインテリアだけ、だった。。よ。


深く愛すること。強く生きること。それが伝わってこなかったんだよぉ…。

feeling muzzy… ;(
nao xx